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「過疎」はいつ生まれたか

共同通信が2019年7月3日、「『過疎』の代替語検討へ、総務省 マイナス印象と」との記事を配信して、話題になっています。

豊かな自然など、都市とは異なる特性に魅力を感じる人が増加傾向にあるとし、マイナス
イメージを持つ「過疎」という言葉の代替語を検討しているようです。

今年の4月、経済財政諮問会議において「就職氷河期世代」を「人生再設計第一世代」として
支援する方針が明らかになった際に、現実を無視した言い換えとの批判も多くありましたが、今回も同様の批判があるようです。

過疎といえば自分も住んでいる島根県を真っ先に真っ先に思い浮かびますが、せっかくの機会なので少し調べて見ることにしました。

過疎はいつ生まれたか

そもそも、過疎とはいつ頃から使われた言葉なのでしょうか。

Wikipediaによると、昭和40年代に島根県美濃郡匹見町(現:益田市匹見町)の町長である大谷武嘉氏が国会において、昭和38年の豪雪により地域社会の機能が低下してしまった町の現状を「過疎」という
言葉を用いて訴えた事から広まったとされています。

ここでの過疎の意味は、人口が極端に少ない状態を現しているのではなく、社会の機能低下により住民の生活水準の維持が難しくなっている様を指しているようです。

国会議事録で過疎を調べる

国会会議検索システムでは、過去の発言や発言者を検索する事ができます。

「過疎」を調べると、昭和20〜30年代には「過疎」という言葉は国会では発言されていません。
(検索ではひっかかりますが、別の文字の読み取りエラーで検出されたようです)

初めて国会で「過疎」の文字が登場するのは、昭和41年3月17日の衆議院で開かれた社会労働委員会の場においてです。
人口の過密と過疎という流れで使われているので、現在とほぼ同じ文脈で用いられている事は間違いないようです。

国会議事録において、昭和41年時点では「過疎」の検索数は8件でしたが、翌42年は78件、43年は180件と、過疎問題が拡がっていく様子を垣間見る事ができます。
(おそらく昭和40年に行われた国政調査の結果、都市部の人口上昇と地方の人口減少の問題が広く知られるようになった)

大谷町長の国会での発言

大谷町長の国会での発言は昭和44年7月23日、地方行政委員会内で確認できます。

少なくとも国会内での発言としては初出から3年以上経過しています。
事実関係から判断すると、大谷町長の発言をもって「過疎」のはじまりとするのは間違いかも知れませんが、国会での発言を見ると、豪雪の影響で集落が消滅した事などを切実に長々と語っていて、強烈な印象を受けるのも確かです。

大谷町長の国会での発言の翌年には過疎地域対策緊急措置法、昭和47年には「日本列島改造論」が発表されるなど、過疎問題、都市と地方の格差是正などが進んで行きますが、
それらにさきがけて大谷町長をはじめとする地方の人々が、地元の問題を切実に訴えていた事も忘れてはならない事だと思います。